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小さな頃のキヲク、再生される

日記

今日は6月28日。
2パイ(6.28…)の日、そして完全数(6と28)の日おめでとうございます!


それはそうと、自分が7〜8歳の頃描いた絵本が今になって見つかった。
当時は何を考えていたのか分からない……かと思いきや、実は今とそんなに違わないように思えるのが不思議だ。
3つ子の魂、今のところ変化なし?



『なくしたえんぴつのせいで』
『高田=徹 作・絵』


ありありと思い出せる。
分析しつつ眺めてみると(自分にとっては)結構面白い。


まず、セロテープを横向きにはらずにわざわざ全て縦向きに貼っているのは、横向きよりもちぎれにくいと思ったからだ。
横一本で貼ると切れ目のカット跡から裂けてしまうから、それを防ごうとしたのを覚えている。


そして「高田=徹」という表記。
これは外国人の名前の書き方で「=」を付けている表記を見た時にそれが正式な書き方だと思って勘違いしていたから。
このころは学校のプリントの名前にも付けて得意げになっていた。


左に描いてあるフワフワしたものは木のつもり。
なぜかこういう木の記号を覚えてしまって以来、木とはこう描くものだと思い込んでどんな木でもこの記号で済ませていた時期があった。


右下の田んぼ。
田んぼは田の字型になっている、という強烈な思い込みからこんな図形的な絵になっている。


田んぼの上の雲の形。
これは上向きのカーブと下向きの波線は描き慣れていたが横に膨らみを持つ波線が苦手だったので、横だけ乱れた形になっていてふわふわ感を失っている。


家のドア。
写真ではわかりにくいが銀色の色鉛筆を使っている。
他はワラっぽい感じの素材でできているが、ドアは金属にしてしまったのは家のドアを参考にしたから。
家には左側にドアがあるというイメージもやはり環境依存の固定観念だ。


鉛筆の気が露出しているところと塗装の境界のギザギザ。
ギザギザの山の部分がちゃんと鉛筆の六角のカドのラインにあわせてある。
そこは何故かこだわりがあって、立体はカドは合っていないと気持ち悪く感じていた。
鉛筆全体は歪んでいるが、そこの写実性はむしろ気にならなかった。


名前を緑色の線で囲っている。
当時は緑色が好きで、徐々に青緑がいいと思い始めたころの過渡期。


太字になっているタイトル。
この頃太字にハマっていた。元はといえば飾り文字を書くのがうまい家族(特に兄)に憧れがあったので、必死に真似をしていたと思う。
兄はゲームのパスワード帳も美しく作って製本っぽいことまでしていたので、まさに神だと思っていた。


タイトルの文字の色。
一見するとグラデーションになっているが、実は1文字に1色が対応している。
使っていた色鉛筆はスヌーピー柄のもので、タイトルの「な」から順に、レモン、き、やまぶき、だいだい、あか、あかむらさき、むらさき、あおむらさき、ぐんじょう、あお、みずいろ、しろ、で塗った。紙が(元々は)白いのにちゃんとしろも塗っている。
今なら他の色も混ぜつつグラデーションを作ったかもしれないが、当時は色鉛筆の色が全てというイメージがあって中間の色を使おうという発想がなかったと思う。
むしろ、色鉛筆の並びが自分にとってのグラデーションの定義だったかもしれない。


………


こうやって見ると絵と言うよりは記号と近似の塊だが、自分の癖や執着が見え隠れするようでもある。







絵本の内容を要約するとこうだ。
友達が鉛筆をなくして自分が一緒に探す手伝いをして森へ行く。
それらしい鉛筆がいくつも見つかるが全部違うものだった。
変なところに着いて居場所が分からなくなり、家路までの冒険が始まる。
おわり。


始まるところで終わるという不可解な展開だが、それよりも自分としては引っかかる点があった。


実はここに出てくる友達は実在の、その時一番仲が良かった友達だ。
自分は友達が困っていて助けようとしている。一見すると親身な対応だが、実は一方通行の善意的行動になってしまっている。
よく読むと分かると思うが、それが一番現れているのが「手伝う」という表現。
この時点で友達は「困っている人」で、自分のことを「助ける人」だと思っていて、鉛筆をなくしたこと自体は基本的に他人ごととして見ているのが分かる。自分には分かる。
これは当事者として困難を乗り越えようとしているのではなく、外部の人間として一方的な善意的行動をしているということじゃないか。


もしこれが自画像だったら……。
この友達とはクラス替えで離れてから疎遠になったが、その理由がこの絵本に隠された自分の心理にあったかもしれない。
絵本が見つかった時は懐かしくて嬉しい気持ちでいっぱいだったが、ふとそれに気がついて複雑な気分になってしまった。


ただ、大切な友達だと思っていたのは事実だし疎遠になったことが悲しかったのもよく覚えている。
どうなんだろう。
自分にとっては友情で、相手にとっては押し付けがましいお節介だった、のかもしれない。




追記:
単に罪業妄想だったらいいけど、それはそれで問題かもしれない。